【奥田ふみよ】参議院議員


戦争をテーマにしたこの企画、ナビゲーターはこの方。
取材を通して、いのちの大切さを学びます。
長崎市平和公園


奥田ふみよ(参議院議員)
「この長崎って、自分が住んでいる福岡県の糸島市からそんなに遠くはないんです。
7年ぶりに私 ここに来たんですけど、
その時 7年前に見た自分と、今 7年経って、ここをまた改めて平和の象徴として像を見た時に、

確実に自分の心は、7年前と違うんですよ。
それは何かって言ったら、
戦争は絶対いけないんだ
絶対にやってはいけないんだ
核は持ってはいけないんだ

そういう学びとか、いろんな主権者の声を聞くとかっていう機会を、どんどん おかげさまで増えていて、
暮らしの中に戦争反対を訴えるっていう日常っていうのが、この7年間の中で、本当にどんどん増えていってる。

命をとにかく子どもたちにどうつないでいくか、
その手段として この企画もあるんだろうと信じて、それをどう意味を持たせるのかっていうことで、すごく強い思いを持って 今日もここに来させていただきました。
こういう機会をいただいて、本当に感謝しています。」

ナレーター うじき つよし(Musician)

今回も気合い十分の奥田議員。
まず訪れたのは、市内にある長崎人権平和資料館。
長崎人権平和資料館

館内には、強制労働の記録や、
日本軍が行った侵略戦争の歴史のパネルなどが展示されています。



奥田ふみよ(参議院議員)
「途中の階段がすごいんですよ。

私、実は7年前にも一度来ていて、
階段を上る途中の写真が一番強烈に印象に残っているんですよ。忘れられなくて。

これ、写真で見る日本の侵略
明治以降の日本がたどった道、
それは他国の人々を奴隷化し、土地と資源を奪い尽くす”侵略の道”にほかならないと。

その1枚1枚の写真が、いかに日本が侵略して加害をしていったかと、1枚の写真から、傷つき 殺され苦しんだ人々を思い、過去を正しく知ることによって、平和への願いを新たにしてくださいと。

結構ね、この福沢諭吉さんの1万円も 何も知らないで持ってましたけれども。
福沢諭吉とアジア
朝鮮・中国に対しては露骨な蔑視(べっし)と侵略を是認(ぜにん)する言動を繰り返し続けた。
しかし、そういう教育だったんですよ、日本って。


私、結構この写真も忘れられなくて。
これ、徴兵制の導入って書いてあって、朝鮮人も兵士として動員してるっていう。
徴兵って言ったらね 日本人ばかりだと思いきや、戦争の拡大に伴い 朝鮮人を兵士として根こそぎ動員する。
そういった徴兵制が実施されるに至ったと。

そういうことって、私は学校で習わなかったんですよ。
これもやはり 戦前からの日本の侵略 そういった強制連行っていう加害の歴史を、いかに学校が教えてくれなかったかっていうことを、私 ここで7年前に来た時にびっくりした。知らなかったから。知らないって罪だなと思った。


侵略と死を美化する「肉弾三勇士」
「満州」から目をそらせるため日本は上海で「日本人襲撃事件」を演出し、
自作自演したわけですよね。
またも攻撃を開始した。中国側の戦意は高く、日本軍は予想をはるかに超える死者を出したが、このとき無謀な攻撃により爆死した3人の兵士を「爆弾三勇士」と美化し、もてはやした。


しかもこっち、三勇士紀念の写真が 3人若いですよ。
三勇士は自己の身体に点火せる爆弾を結び付け、身を挺(てい)して飛び込んだと、
おいくつだったんだろう?
“武器って何ですか?”って聞いた時に、
高市さん、こう言ったんですよ。

“国民を守るため”
国民を守るためのものだと、あなたを守るためのものだって、
人を守るためのものだって言ったのかな。


見てくださいよ。
一方で守られた側と、こうやって すべてを破壊されて、まったく何の罪もない外国の子どもが、こうやって ひどい目に遭わされて命を失うんですよ。
それが事実でしょう。

これは南京大虐殺の話だ。
“南京大虐殺なんてなかったんだ”っていうようなことを言い出す人たちもいっぱいいるよね。

南京(なんきん)・重慶(じゅうけい)
日本による中国侵略の過程の中で、南京(なんきん)と重慶(じゅうけい)は象徴的な地である。
南京を占領した日本軍は、捕虜や一般的市民を含むおびただしい数の中国人民を虐殺した。
また多くの婦女子が強姦され、放火、略奪、破壊が、ほしいままにされた。
中国の教科書では「殺されたものは30万人を下らず、焼かれたり、壊されたりした家屋は全市の3分の1に達した」とされる。

戦争でも何でもない。これもう本当にジェノサイドですよ。だから、やってることはドイツのアウシュビッツ ヒトラーと何ら変わりがない。
国民党軍が避難し臨時首都が置かれた重慶へは、1939年から41年にかけて、195回にも及ぶ無差別爆撃が行われた。
これらは当時、国際的な非難を浴びたが、日本国内では「皇軍(こうぐん)の輝かしい戦果」としてのみ報じられた。

こういった資料館ってないから 本当に。なさすぎるから。
私たち、こういう三光作戦とか、こういう所で初めて名前を知るようじゃ、平和をつなぐことなんかできないよ。”南京大虐殺なんかなかったんだ”とかっていう日本人が少なくない この現代において、平和をつないでいくことなんかできないだろう。」
そして、2階のフロアには、
治安維持法で摘発された人たちのパネルが展示されています。




奥田ふみよ(参議院議員)
「この方 末永さんという方は、お医者さんだったのかな。
戦争反対っていうことを明確に示した方が、その治安維持法により逮捕され、この方は結局 どういう風に殺されたのかは分からないんですよ。

そして 有名な方で言ったら 小林多喜二さんの この写真は 結構有名かな。
この方だって全力で抗ったわけですよね。
でも逮捕されて、拷問を受けて、なぶり殺しにあったと。それは何でか?
戦争を繰り返して侵略を繰り返す 日本政府に対して抵抗したら 捕まったわけですよね。


この長谷川テルさんという方も女性の方で、戦地で日本兵に反戦を呼びかけたエスペランティスト。
私、全然この方は知らなかった。
すごいね これ、彼女の言葉なんですね。

お望みとあれば、どうぞわたしを売国奴とよんでくださって結構です。わたしはこれっぽっちもおそれはしません。
むしろわたしは他民族の国土を侵略するばかりか、なんの罪もない無力な難民のうえにこの世の地獄を現出させて平然としている人びととおなじ民族のひとりであることを恥とします。
ほんとうの愛国主義は、人類の進歩とけっして対立するものではありません。でなければ、それは愛国主義ではなく、排外主義なのです
もっともだ。」
【新海 智広さん】長崎人権平和資料館

ここからは、資料館の人にお話をお聞きしました。
新海 智広さん(長崎人権平和資料館)
「治安維持法が恐ろしいのは 結局、人の思想を罰するっていう面なんですよね。
だから普通 例えば、私たちが知ってる犯罪っていうのは、例えば人を殺すとか盗むとか、火をつけるとかいう行為を罰するのが通常の犯罪ですけども、

治安維持法の場合には 例えば、お前は戦争反対という考え方を持ってるだろうと見られて、”いや 持ってません。私は戦争賛成です。”と言っても、
いや 嘘だと、お前の言動から見ると お前は戦争反対という気持ちを持っている。つまりそれは 国・政府に逆らうことだという風に、

ある意味では、もう人間の頭の中は誰も見えないわけですから、
逆に言えば、お前はこういう風に考えているんだと決めつけられると、誰も反対ができない。
そういう意味で、本当に怖いんですね。」
撮影協力:国立公文書館

1925年5月12日に施行された治安維持法。
当初は、国体の変革 または 私有財産制度の否認を目的とする結社を処罰することを主旨として成立しました。

撮影協力:山﨑記念中野区立歴史民俗資料館

その後、二度の改正を経て、社会運動全体を封殺した治安維持法。
対象は一般市民にまで及び、検挙者は10万人を超えると言われています。


その背景を、専門家に伺いました。
【荻野 富士夫さん】小樽商科大学 名誉教授

荻野 富士夫さん(小樽商科大学 名誉教授)
「治安維持法は1925年に制定、施行されて、1945年 敗戦のあとに廃止になったわけです。
たかだか20年の間の法律ですけれども、しかし 非常に大きな威力を持っていた治安法。

元々はロシア革命。
ロシア革命のあと ドイツの革命などもあって、皇室が倒れると 帝政が倒れるというようなことになります。
いわゆる過激思想という風に当時 呼んでいたものが、欧米から日本に伝播・影響してくるということで、それを未然に防ぐという そういう趣旨で立案が開始されたわけですね。

もうすでに、その時点からそういう思想を処罰するということはあってはならないというような、すでに悪法であるという認識というのは、そういう反対意見というのも当時はあった。
例えば、後の天皇機関説事件で知られるようになる 美濃部達吉 憲法学者ですけれども、
彼などは早くから、治安維持法の制定に反対する1つの論理として、そういう思想を法律でもって処罰してはならないという、そういう考え方のもとで批判の論陣を張っていました。

特に1935年以降、満州事変以降、今度は 日中戦争が (1937年) 全面化してきます。
そこになると、戦争に反対する考え方、思想、宗教であったりとか、あるいは文学を通して自由な思想を表現したいというような、当時の国家にとっては目障りなものですね。
戦争を総力戦体制として 戦争を進めていく上で言えば、障害となると彼らが見なしたものは、いわば嗅覚鋭く そういうものの芽を探り当てて、それを掘り上げていったということを、そこが拡張解釈ということになるわけですね。」


続いて、深海さんが案内してくれたのは…

奥田ふみよ(参議院議員)
「軍艦島ですよね。私 行ったことあります。」

かつて、炭鉱のまちとして栄えた軍艦島。
このまちにも、人権侵害の歴史がありました。

新海 智広さん(長崎人権平和資料館)
「1910年に日本はまず、朝鮮を韓国併合と言ったんですけど、植民地にしますよね。
まず朝鮮半島からの渡航、日本に渡って来て働く人が1910年以降出てきます。
初めのうちはですね、強制連行とまでは言えないんですけども、
ただし 日本が朝鮮を植民地にして土地調査事業などをやって、農民から事実上 土地を取り上げてしまいますので、
土地を失った朝鮮の農民は生きていくために やむを得ず日本に行って働くと、
だから、それを一応 おそらく日本政府とかは、
本人の自由意思で 自分の意思で勝手にやって来たんだみたいに言いますけども、
本当はその背景として 植民地支配という目に見えない構造、構造的な暴力があるんですけど。
とにかく1910年以降は、そんな形で自由渡航でやって来るということがあっています。

これが、状況が決定的に変わるのが1939年です。
結局、1931年が満州事変。
そのあと 事実上 中国では、もう戦闘状態、各地で小競り合いでやっていて、
1937年から日中全面戦争ですよね。盧溝橋(ろこうきょう)事件以降ですよね。
そうなると 戦争がどんどん激しくなって、日本の若者が次々に兵隊にとられてしまう。

そうすると働く人が足りなくなるから、
当時は今と違って 機械化がそこまで進んでいないので人力ですよね。

特に重労働の鉱山とか、石炭を掘るとかいうエネルギー源ですよね。
こういう所では やっぱり、若い男性の力が絶対必要なわけです。
ところが、日本の若者がどんどん兵隊でいなくなってしまうので、

その穴埋めとして、朝鮮半島から強制的に連れて来るという政策を取るわけです。
最終的には労働力だけで、たぶん 80万人ぐらいは動員されて、
これと別に兵隊さんとか軍属ですね。
そちらの動員もありますので、それを加えるともっと多い。相当数 朝鮮半島からの動員があっていたということになります。」

忘れ去られていく日本の歴史
戦争とは何か?
新海さんに問いかけました。

新海 智広さん(長崎人権平和資料館)
「私にとっては “戦争とは何か?”と言えば、それはもちろん 最大の人権侵害ですよ。
だから とにかく 戦争を起こさないっていうことに努力をしないといけなくて、

これをちゃんと見たら、戦争はもう 起こしたら ダメなんだっていうことが分かると思う。
もちろん 植民地支配も許されない間違ったことだったし、侵略戦争も明らかに間違った 正しくないことだったと、
過去において私たちはそういうことをやったと、私たちの祖先がそういうことをしたということをここで学んで、
私たちはそういうことをしないっていう、そういう場に最終的にはなっていってほしい。」

同じ過ちを繰り返してはいけない。
戦争とは何かと考えることから、
恒久的な平和が生まれるのかもしれない。


次回へ続く
